人は死んだらどうなる?

こんばんは。講師の飯田です。8月15日、敗戦記念日が近づいてくると首相や閣僚の靖国参拝が注目されますね。

戦死者が祀られているといわれる靖国に参拝することは、先の大戦の肯定につながるのではという隣国からの批判があるからです。

その賛否はともかく素朴な疑問として、そもそも人は死ねばどこかに祀られて、一箇所にじっとしていられるものなのでしょうか?

いったい、人は死んだらどうなるのでしょうか?

 

 

私が通っていた大学は、靖国の裏に校舎があり、いつも校舎から参拝者を眺めては、ぼんやり考えていました。

そんな私が学生時代に影響を受けた哲学者の中で、とくに身近な言葉で哲学することを教えてくれたのが池田晶子さんです。

残念ながら、40代の若さで亡くなられましたがその池田さんの書かれた『暮らしの哲学』の中に、「“死”は怖いものか?」という一文があったので、引用させていただきます。

 

 

現代文明は、ほぼ唯物論の文明ですから、“公式見解”としては、 多くの人は、死後の世界を信じていません。

いや“信じる”というこの言い方が示す通り、そういうのは、信じるか信じないか、個人の宗教的信念の問題だと思っています。

そして、自分は宗教的信念を所有しないと表明する人は、では死後をどう思っているかというと、“何もなくなる”と思っている。

“死後の世界”なんてものは“無い”

人は死ねば無になるのだと。

人間とは物質すなわち肉体だと見做すのが唯物論の基本ですから、肉体がなくなれば人間はなくなると考えるのは当然です。

しかし、“死ねばなくなる”派の人でも、そのことが正確に何を言っているいるのか、自分で理解していないことに気がついていないことが多い。

日常の会話や、言い回しの端々に、じつはそうとは思っていないことが見てとれることが多い。

たとえば人は、“今度生まれ変わるとしたら”と、平気で言いますよね。

あるいは“死んだ母が守ってくれる”

もしくは“向こうでお会いしましょうね”等々、死後の世界を想定しているのでなければあり得ない言い方を、人は大変よくします。

もし“死ねば何もなくなる”と本当に思っているのだったら、日常会話からその種の言い回しは消滅しているはずではないのか。

“死ねばなくなる”と人が本当には思っていないことの何よりの証拠は、死への恐怖を所有しているというまさにそのことです。

だって、死ねばなくなるのだったら、なぜ死ぬのが怖いんですか。

怖がる人がいないんだから、怖いということもないはずです。

(中略)

と、このように考えてくると、だんだん整理されてきます。

人は“無になる”ことを恐れているのではなくて、“わからない”ことを恐れているのです。

死んだらどうなるかわからない、本当はこのことが怖いのです。

 

 

 

 

仏教では、死んだらどうなるかわからない心を、後生(ごしょう)くらい心無明(むみょう)の闇といわれます。

 

死んだらどうなるかわからない、この行く先の分からぬ不安が常にあるために、何をやっても心からの安心も満足もない、この心が私達を長年苦しめてきた、苦悩の根元である、とお釈迦様は教えられているのです。

 

この解決は他力本願によるしかありません。

自力では破ることのできない心の闇なのです。