人生に意味が感じられないのは、生きる目的を知らないから

森鴎外の小説『青年』は、作家を志す主人公・小泉純一の心の悩みと成長を描いた青春小説の代表作です。その中に純一の日記として、このように書かれています。

 

生きる。生活する。答えは簡単である。しかしその内容は簡単どころではない。
一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門をくぐってからというものは、一生懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。
学校というものを離れて職業にありつくと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先には生活があると思うのである。
そしてその先には生活はないのである。
現在は過去と未来との間に画したした一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。

 

子どもは子どもなりに目的を持って生きています。しかし、なかなかそれが果たせなくて苦しいのです。

学校を出たら、大人になったら、自分の思う満足な生活ができると思って一生懸命頑張ります。

仕事に就いたからと言っても、悩みや苦労は絶えません。大きな仕事ができたら、プロジェクトが成功したら、会社が起こせたら、そうしたら思い通りの人生になる、と頑張ります。

進む先にあるはずの「このために生きてきた」という満足感や達成感、幸福感を目指しますが、それはどこまで行けばあるのでしょうか。

小説『青年』には「そしてその先には生活はないのである。」と綴られていますが、仏教では、子どもも大人も、悩みや苦しみがあるという点で同じであると説かれます。

どうすれば「私の人生の目的、生きる意味はこれだ」と胸を張って言えるのでしょうか。

 

 

 

この坂を越えたなら幸せが待っている…のか

 

学校に行きたくない子どもなら、こんな学校卒業したら幸せになれるのに…と思います。

卒業後も、友人関係での悩みや、仕事で結果を求められるなどの苦労があります。

親になったからには、子育てのためにも稼がなければなりません。しかし、楽な仕事というものは無いわけです。

ちょうど、ハイキングで言えば、目の前に険しい登り坂がどーんとそびえるような状態です。

これを乗り越えれば楽になれる、と思って登ってみると、また次の坂が現れます。やっとの思いで手に入れた幸せも、一瞬で消えてしまうことがある。

そして、また「この坂さえ越えたなら」と目の前の坂を登り始めます。どこまで言っても本当の満足ではない。

年を取って子どもが独り立ちすると、のんびりとした老後の生活が始まります。

しかし配偶者が亡くなったりしますと、一人で生きていゆくために健康のことで悩みますし、介護施設に入っても人間関係で苦労します。

遺産を残しても、子どもや親戚に通帳と印鑑の場所を探られるようでは、果たして財産を持っていることは幸せなのか…。

「一生懸命頑張ってきたのは何だったのか」「意味のない人生となってはしまわないか」と後悔しても、時間を戻すことはできません。

たくさんの坂を乗り越えても最後、幸せは無かった、となるならば「何の為の人生だったのか」と問わずにはいられないでしょう。

生きる目的とな何かと聞かれても、本当の人生の目的を知らなければ「苦しむための一生だった」と言うことになってしまいます。

ということは、学校や仕事、子育てなど、子どもから老人まで追い求めてきたものは生きる目的ではなかったということです。

人生に意味が感じられず生まれてきた喜びが無いのは、本当の生きる目的を知らないところに根本原因があります。

仏教を説かれたお釈迦様は、人生の目的の知り、それを達成して「人間に生まれて良かった」という幸せをこのように説かれました。

人身受け難し、今已に受く(釈尊)

 

 

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