仏教の観点ではかなりまじめな「死が怖い」という人生相談

ゴールデンウイークの10連休、皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうか。

私はいつものように仕事やプライベートであっという間に過ぎてしまった、というのが正直なところです。次は、7月の海の日まで連休がないそうですので、ネジを巻いて頑張っていきたいと思います。

 

さて、連休前最後、4月26日号の読売新聞に、とても興味深い記事が載っていましたのでご紹介します。「人生案内」というコーナーに寄せられた「死が怖くてたまらない」という投稿です。
(ちなみに、読売新聞はオンラインでも読むことができるそうです。→読売新聞オンライン https://www.yomiuri.co.jp/jinsei/20190425-OYT8T50080/

 

今回、寄せられていた投稿はこういう内容でした。

 

■投稿者は、静岡県の30代の女性会社員。死が怖くてたまらない、という相談。

■30歳のある日、家事の最中にふと「死んだらどうなるんだろう」と思ったことがきっかけで、電車に乗っている時や就寝前などにも、死のことが頭に浮かび「闇に閉じこめられるような恐怖」がふとやってくる。

■「自分という存在がなくなって無になる」と思うと「真っ暗な深い穴をのぞいたような、どうしようもない絶望」を感じ「ゾッとする」。

■昨年にはお祖母さんが亡くなられ、悲しみと共に、それ以上に強く感じられたのが、「死んだら自分が無になる、という恐怖」だったそうです。

■「死は誰にでもやってきて、逃れることはできません。みんなどのように折り合いをつけているのでしょうか。逃れることができないのなら、死を受け入れるためにどうすればいいのでしょうか。」というものでした。

 

 

 

誰しも命に限りがある、という不安

仏教の観点では、死を考えることはとてもまじめな人生の考察と言われます。

じつはお釈迦様も若い時、死についての悩みを持っておられました。

 

王族の太子であったお釈迦様が、お城の東門、南門、西門から初めて外に出られた時、それぞれの門前で、老人、病人、死人を見られ、人生の苦しみを知られた「四門出遊」のエピソードがあります。最後、北の門から出られ、そこで老病死を超えた境地を求める修行者に会われ、出家を決意されたと言われます。

お釈迦様はその時に、老いと病と死の問題に驚かれましたが、老いも病も、その根底にある苦しみが「命には限りがある」ということであり、「死んだらどうなるのか」という不安でした。

 

この不安や恐怖は、わかる人と、あまりピンとこない人に、わりと分かれるところかもしれません。あなたはいかがでしょうか。

私も、4歳頃に祖父が亡くなり、6歳頃にそれを認識した時「死んだらどうなるんだろう」と考えて恐ろしくなった経験があります。しかし、中学生くらいになるとほとんど考えなくなったように思います。

 

仏教では、人生をまじめに見つめると、命には限りがあるということが問題になると言われます。

たしかに、医療でもターミナルケアが問題になるのは、病気などで死期が迫ってからです。死の準備とされる終活も、老後に始める人が多いのではないでしょうか。

そうは言っても、若くして亡くなる人も多く、必ずしも老後を迎えてからお迎えくるわけではありません。120歳まで長生きできる人はあっても、死なない人はいません。

 

 

なぜ「死んだらどうなるか」不安なのか

新聞に投稿された方は「無になると思うとゾッとする」と書かれていましたが、このように死に向かうと暗くなる心を、仏教では「無明」とか「無明の闇」といわれます。

まだ死が遠い先で、自分に関係ないことあれば「無になると思えば、気楽なのでは?」とも思えるかもしれませんし、「あれこれ考えても仕方ない」とも思えます。

 

なぜ「死んだらどうなるか」が不安になるのかといえば、必ずやってくる問題だからです。

考えてみますと、小学校の頃、卒業が近づいてきますと、中学校に行ったらどんな生活になるのか、授業や部活が楽しみだったり、心配になったりします。高校、大学に進学する時は地元を離れることもあり、期待や不安は大きくなりました。

就職活動ともなりますと、勤め先のことをいろいろ調べておかなければ、という不安もあります。自分のスキルはどうか、どういう仕事をしたいのか、進みたい業界の状況はどうか、キャリアアップはできるのか、ブラック企業ではないだろうか、実際に働いている人たちの声は…など。

いつまでも働き続けることができないとなれば、老後になったらどうするかは大事です。どんな貯蓄の仕方がいいか、持ち家と賃貸とどっちがいいか、今話題の確定拠出年金はどうか、医療費はどのくらいかかるのか、等、週刊誌や書籍でもよく見かけます。

 

同じように、命には限りがあるのですから、やがて人生が終わり必ず旅立つ時が来ます。そうなった時に私たちは「死んだらどうなるのか」という問題に直面します。

この問題のために「死生学」という学問も始まり、最近ではイェール大学での講義を書籍にした『DEATH-イェール大学で23年連続の人気講義「死」とは何か(シェリー・ケーガン氏著)』が注目を集め、すでに12万部を突破しました。

仏教では、これら死に向かう苦しみを「行苦」や「人生苦」と教えられ、生活上の苦しみや、大切なものを失った悲しみよりも深い、人生の根本的な苦しみと説かれました。

 

 

死の問題解決の幸福

この死の問題の解決を

抜諸生死勤苦之本(諸々の生死勤苦の本を抜く)

と説かれ、死にもジャマされない幸福の境地を歎異抄という仏教古典では

無碍の一道

と書かれています。

「無明」という死に向かうと暗くなる心が解決した人生なので、海にたとえて

光明の広海に浮かぶ

とも書かれています。

 

必ず直面する問題が「死んだらどうなるのか」なのですが、普段は仕事や家事、育児、趣味やレジャーに大忙しで、「あの人との人間関係をどうするか」「この仕事をどう乗り越えるか」など目の前のことだけに心が振り回されてしまっています。

お釈迦様が教えられ、ずっと伝えられてきた仏教に、「死んだらどうなるか」の暗い心の解決が説かれているので、相談を投稿された静岡の方にもいつか仏教が届いたら、と思います。

 

 

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